天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)所在地:上天草市

天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)所在地:上天草市
天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)所在地:上天草市

益田四郎時貞は、江戸時代初期(一説では1621年)に生まれたとされています。

益田家は、キリシタン大名であった小西行長の元家臣で、家族共に敬虔なキリスト教徒でした。小西家の滅亡後、益田家は浪人百姓として宇土に居住しました。四郎の生涯は不明な部分が多いのですが、幼いころからカリスマ性があり、聡明で容姿も端麗だったといいます。

四郎は、島原の乱勃発時は16歳ほどの少年だったにもかかわらず、十字架を掲げ、戦闘を指揮しました。最後は、幕府軍の原城総攻撃の中、火の中で自害したのですが、少年であった四郎が大規模な反乱を組織したり、戦いを指導したとは考えられず、実質的な首謀者は庄屋や浪人達だったのではないかと言われています。

死後、「四郎の首は切断され、幕府へ送られた」や「原城大手門前に晒された」と言われていますが、幕府は四郎を知らなかったため、旗印の近くにあった立派な服装をした少年の死体を天草四郎と断定したと言われています。

また、上天草市には古代海洋民族の遺跡が存在します。
白嶽森林公園内にある矢岳巨石群遺跡です。

境石より北、夏至、秋分・春分、冬至と巨石が配置され、境石には盃状の穴が無数に刻まれています。この盃状穴は、古代海洋民族が祭祀に用いたとされ、地中海をはじめ、イングランド、北ヨーロッパ、アメリカ両大陸に広く分布しています。他にも人面石やドルメンなどがあります。